エマソン論文集〈下〉 (1973年) (岩波文庫)
本, 酒本 雅之
によって 酒本 雅之
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1973年の本。エマソン(1803-1882)はアメリカの思想家である。曰く・・・魂が万物をとりまいている。魂はいっさいの経験に反論し、時間と空間を廃棄する。たいていの人間の場合には感覚の影響力が精神を圧倒していて、時間と空間の壁が乗り越えることのできない本物だと思えるようになっているほどで、これらの制限のことを軽々しく語ることは、世間では狂気のしるしである。しかし、時間や空間は魂の力を逆に計る尺度にすぎない。魂はわきめもふらずに前方を凝視し、行く手に世界をひとつ創造しては、背後にあまたの世界を捨てていく。さまざまな事件の織りなす織布は、魂が身にまとうゆったりとした上着にすぎぬ。魂の進み具合は、状態の上昇という方法で行われていく。真実であることが真実で、偽りであることが偽りだと認識できること、これこそ知性の印であり特性である(スウェーデンボルグ)。われわれは自分で知っている以上に賢いのだ。自然界には固定したものはひとつもない。宇宙は流動し浮動している。永続などということは、程度を表す言葉にすぎない。法則が事実を溶かして流動させる。勇気とは自己回復の能力である。真理に関する自分の過去の理解よりも真理そのものの方を好み、真理でさえあれば機敏に受け入れるべし。法律、社会との関係、キリスト教、世界など、いつ何どき取って代わられ、死滅してしまうかもしれない。人生は驚きの連続である。われわれが自分の生涯を築いているとき、あすの気分、喜び、活力は、きょうのうちにはわからない。神の手になる傑作、魂の全面的な成長や普遍的な働きは、神がお隠しになる。予測することは無理である。真理がすばらしいもので助けになることはわかっても、どんなふうに助けてくれるのかは見当もつかない。実際そうなることが、そうだとわかるためのたったひとつの入口である。才能と品性のちがいは、踏み慣れた旧来の道をめぐりつづける器用さと、一段すぐれた新しいゴールを目指して新しい道をみつけようとする活力や勇気との違いである。宇宙は、魂が外に現れた姿である。生命のあるところならどこであれ、必ずそれはおのれのまわりにどっと溢れ出て現象となる。循環する霊の流れは、休むこともよどむこともない。自然は想念の具現であり、たとえば氷が水と気体になるように、ふたたび想念に帰る。世界は凝縮された精神であり、本質は香水のように揮発性をそなえていて、自由な想念の状態にふたたび絶え間なく逃げ続けている。だから、無機物だろうと有機物だろうと、すべての自然の物象が精神に及ぼす影響はこれほどにききめがあり、強烈となる。閉じ込められた人間、結晶体となった人間、植物の姿となった人間が、人間の姿をした人間に話しかける。ある人間の運勢は、当人の品性の結実である。あるひとと交わる友人たちは、そのひとにそなわる磁力である。ひとりびとりが自分の霊に耐えている。人間は、はじめて見かけるように見えながら、実は自分のなかからにじみ出て、自分に付き従うさまざまなできごとに、自分の品性が射出されているのを見てとる。できごとは品性に一致して広がっていく。歴史は、自然と思考との作用と反作用である。物質と精神は、たえず傾け合い、均衡を保ち合い続けてやむことがない。宇宙にある固体はどれもこれも、精神が近づくといつでも流動化するが、固体を流動化できるこの能力が精神の尺度である。自分自身のなすべき仕事を心得ぬこと、自分の思想を他人からもらいうけること、それは知的な人間には許されないことである。・・・本当に尊敬に値する人間とは、彼が機関となって仕えている魂を、おのれの行為によって顕わす人間のことである。魂の内部では、結果にほかならぬ「人間」が終わり、原因である「神」が始まる。つまりわれわれは、一方の側面を、もろに「霊の深淵」にさらしている。魂こそが主権者で、「万物をとりまいて」おり、「時間と空間を廃棄」してしまう。魂の進み方は直線的におのれを実現していくのではなく、いくつもの変態を重ねながら上昇していくというかたちをとる。個々の人間などというものは、魂の根源的な教えに対する補足にすぎない。世間で知恵とか才能とか言われるものは、実はある特定の部分だけが誇張されたものにすぎず、その意味では一種の病いにほかならない。などなど。
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